浄土真宗の教章

正福寺の歴史|福岡県朝倉市 水城山 正福寺|浄土真宗本願寺派

正福寺の歴史history

浄土真宗本願寺派 水城山正福寺 由縁記

当寺は浄土真宗本願寺派にして開基は摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県南部)伊丹、有岡城主荒木摂津守村重の一子、正七郎了保である。

荒木村重は明智光秀の讒言により、織田信長と戦い城兵挙げて死守するも食糧は欠乏し、その上毛利氏の援路を塞がれたため、遂に天正七年十一月十五日落成せり、その後村重の男、女子及び四名の重臣(家老職尾野五郎兵衛、阿部某、飯田某一名は医者と伝う)落成後、幾年か経て筑後の国草野発心山城主草野家靖を憑り来り客分となる。

天正十五年草野城豊臣秀吉に攻められ落城するに及び村重の一子(又は一女とも伝う)筑後国竹野村(現在田主丸町西郷)に光伝寺を開基せり。(同荒木姓にして紋章も同左巻き二つ巴)又一子正七郎了保無常を感じ剃髪して僧となり有岡在城時代の重臣加藤又左ェ門重徳の二男福岡黒田公の家老にして筑前国三奈木荘に居住の黒田玉松殿(勲功により黒田姓を授与さる)に招かれて筑前国下座郡蜷城村八重津(現在朝倉市八重津)に玉松殿より寺地を拝領し此所に草庵を結ぶ、之を荒木庵と称せり、正七郎了保の墓は荒木庵跡にあり(寛文七年十一月十七日没)正七郎了保の嫡子浄念(第二世)の時、慶長十六年九月八日本願寺准如上人より正福寺と寺号賜へり、建武三年春菊地武俊と小貳頼尚との古戦場「水城の渡」近傍に在るに及んで山号を水城山と号し往生浄土の道を村人に伝え行く内に信徒次第に増え、時下八重津より現在の寺地長田に移転改築し、今日第十五世に至るものなり。

寺号賜って以来三百八十七年の法灯が揺るぎなく続いている。